2022年12月、名古屋刑務所の刑務官22人が受刑者3人の顔を手などでたたいたり、
暴言を吐いたりしていたことが発覚した。
13人が特別公務員暴行陵虐容疑などで書類送検され、名古屋地検は起訴猶予処分としたが、事態を重くみた法務省が設置した第三者委員会の提言書は「人権意識が希薄であることや規律秩序を過度に重視するといった組織風土があった」と指摘した。
「ガリ」「空下げ」刑務所内35の隠語廃止
法務省矯正局は提言書を受ける形で、新人刑務官の集合研修で実施する人権教育の
時間を2024年度以降は4倍に拡充させた他、最も強力な収容制圧のツールである拳銃の実弾訓練を廃止することを決めた。
2025年には懲役刑と禁固刑を統合し、受刑者の社会復帰に資する処遇を行う
「拘禁刑」の施行を控えるなど、矯正の現場は規律や秩序重視の処遇から、教育や
社会復帰の支援を主眼とした処遇へ変革期にある。
刑務所でどのような処遇が行われてきたのだろうか。その変遷の歴史や、目下重視されている。高止まりする再犯者率を下げるために有効な処遇について、矯正施設での
勤務経験が豊富な福山大の中島学教授(犯罪学)に話を聞いた。
(共同通信=広川高秀)
▽60年以上も使用実績のない拳銃
新人刑務官の集合研修で必修だった実弾訓練が今年4月に廃止され、銃の取り扱いに関して学ぶ時間が半分に縮小されます。刑務官は公安職として銃の使用が認められていますが、この変化はどう受け止めればいいでしょうか。
「1945~60年までは年に1回、拳銃の全国大会が開かれていました。これは
第2次世界大戦後過剰収容と密接に絡んでいます。今よりも少ない職員数で施設の
保安警備を維持する必要があり、力に頼らざるを得なかった。そのため殺傷能力を
持つ拳銃の訓練を定期的に行っていたと考えます。しかし過去60年以上、刑務所で拳銃が発砲された事案はありません」
仮に刑務所内で暴動が起きた際はどうするのでしょうか。
「警棒や盾、催涙スプレーなど拳銃以外の武器で十分制圧することが可能です。2019年には矯正局直轄の特別機動警備隊が発足し、暴動や外部からの侵入など、非常事態の対応に当たります。これにより、全刑務官ではなく、銃を必要とする職務に従事する刑務官に訓練を実施すればよくなりました」
▽明治から始まった刑務所改革
名古屋刑務所の事件の提言書で指摘された、規律秩序を過度に重視する組織風土は、以前からあったのでしょうか。
「実は明治時代の初期から『監獄改良』ということが言われてきました。
明治政府が近代化を進める中で、監獄の在り方も問われてきたからです。特に1894年の治外法権の廃止により、外国人が日本の法律によって裁かれるようになります。これは外国人が囚人となることを意味します。
法治国家として国際的に見ても適切な刑罰執行ができるよう、1872年にできた監獄則を変えていき、最終的に1908年に監獄法が制定されました」
―監獄法は2006年に刑事収容施設法が施行されるまで維持されました。監獄法の制定で、処遇はどう変わったのでしょうか。
「1922年が変化のターニングポイントと言えます。監獄を『刑務所』、囚人を『受刑者』と呼ぶようになったからです。
刑の内容をどう整理するかにまで射程が及ぶため、私はこれを『(刑を執行する)行刑改革』と捉えています。
刑の執行の在り方を巡り、旧派と新派と呼ばれる人たちの理念対立がありました。旧派は、受刑者の身体を拘束し、刑務所に入れておけば良いとする考えです。
対して新派は、人には可塑性があるとの前提の下、受刑者を教育し改善させるべきだと考えました」
新派は拘禁刑にも通じており、先進的な印象を持ちます。
「当時の司法当局は新派の考えを推進する姿勢を取っていました。ただ、天皇制だったことに加え、第2次世界大戦の影響も強く受け、人格を改善して国家の理想とする人間像に押し込める形になっていきました。
拘禁刑が新派の理念と全く同じではないという点にも留意が必要です」
▽現代に受け継がれる管理行刑的な処遇
戦後は象徴天皇制となり、日本国憲法に基づく民主主義の社会となりました。
「1945年以降の処遇は『管理行刑』と表現できます。管理行刑をさらに細かく分類すると、1965年ごろまでを『保安管理行刑』、それ以降は『規律管理行刑』となります。
保安管理行刑は、過剰収容に対応するために発展した処遇です。主な収容者は若年層で、短期刑の人たちでした。
暴力団の構成員も多く、施設内の保安を保つために、刑務作業に従事させながら、力で収容者を押さえ込んでいきました。
悪いことをした人なのだから厳しく(処遇)してもよい、ということです。
仮に刑務官が暴力を振るうなどのトラブルが発生しても短い期間で出所するため、泣き寝入り的な状況になり、受刑者と刑務官の対立構造には発展せず、受刑者も救済を外部に求めるといったことはしませんでした。
冒頭で説明した、拳銃大会が行われていた時期とかぶります」
その後に来る「規律管理行刑」はどういった性格でしょうか。
「1960年の安保闘争を思い浮かべてください。この時期から、過激派と呼ばれるような人たちが収容されるようになりました。
ハンガーストライキをしたり、訴訟を起こしたり。これまでとは全く性質の異なる受刑者です。
そのような人たちを処遇するには、事細かな規律順守事項を決める必要がありました。
このような施設の規律秩序維持を強く求める管理行刑が行き過ぎて表出してしまったのが、2001~02年の名古屋刑務所事件です。」
副看守長が、男性受刑者の肛門に消防用ホースで放水し、死亡させた事件ですね。
計3人が逮捕され、いずれも有罪が確定しました。
「この事件を受け、2006年に監獄法から刑事収容施設法に変わりました。第30条に『受刑者の処遇は…改善更生の意欲の喚起及び社会生活に適応する能力の育成を
図ること』との記載があります。少なくとも力で押さえ込む保安的な形の処遇は否定されたはずでした」
時を経て、再び名古屋刑務所で暴行事件が起きてしまいました。
「2005、6年ごろは過剰収容のピークでした。法律は変わったけれど、現場は急には変われず、一律に施設内の規則を遵守させるといった『管理行刑』的な発想が
残っていたのです。
つまり、今回の事件の背景には刑事収容施設法第30条の処遇理念がしっかりと浸透していなかったことがあると考えます。
不適切な処遇をした刑務官の大半は3年未満の若手でした。新型コロナウイルス禍で、新人刑務官は先輩からの指導や教育を受けづらくなっていました。
現場での対応が分からずに孤立した若手職員への支援が十分になされておらず、若手職員は定められている所内の規則を一律に守らせることだけに意識が向けられていたのではないでしょうか。」
▽刑務官に必要な対話力
今後の処遇はどうあるべきなのでしょうか。
「『対話モデル』を導入するべきだと考えます。再犯リスクを低めるには、社会に出てから生活を継続できるような力が重要で、その基本が対話です。
決められたルールを守り、指示された作業や指導に参加するといった職員からの指示を待つ処遇では、受刑者は指示待ちで隷属的な人間になってしまい、困っていることを言語化できず、出所後の環境になじめなくなります。再犯者の中には、このような形での生きづらさを抱えた人が多くいます。
刑務所の職員も受刑者も一人の人間として人格や人権を尊重した関係を目指しながら、対話を重視した処遇を実践していくべきです」
そんなことが本当に可能なのでしょうか。
「1994年から、階級とは別に矯正処遇官という専門官制度が導入されました。受刑者を更生させ、社会復帰させようという狙いです。
過剰収容への対応で規律管理に力点を置かざるをえなくなりましたが、現場としても変わろうという意識は確かにありました。
実際に工場担当の刑務官は、受刑者とも積極的にコミュニケーションを取れています」
変革期にある中、矯正の現場に求められることは何でしょうか。
「刑務官は対人支援職員であり、その人材の育成とリクルートが重要です。刑務官が単なる施設のガードマンとなってはいけません。
2024年度から新人刑務官の研修カリキュラムが変わることには意義があります。保安警備の中で最も強力なシンボルである拳銃への比重が少なくなる。
これは受刑者の立ち直りを促進する、対人支援職としての意味づけを強くするということではないでしょうか」
共同通信から引用